日ソ共同宣言の話題が注目されています。なぜかというと、プーチン大統領が安倍首相の故郷である山口県で会談するために来日し、領土問題が解決、そして平和条約が締結、という流れが期待されているからです。今回はその問題の根底にある「日ソ共同宣言」について書きたいと思います。
日ソ共同宣言の背景
日本が第二次世界大戦の敗戦国となり、GHQの統治下にあった当時、日本は主権回復と国連加盟を目指していました。敗戦から6年後の1951年にサンフランシスコ講和条約で欧米諸国との国交回復を果たしました。しかしソ連は1949年に成立した中華人民共和国(中国)がその会議に招かれていないことを理由に日本との講和条約を拒否しました。ソ連が安全保障理事会の常任理事国であったため、ソ連の拒否は国連加盟の障害となりました。
その後、日ソ間で交渉が進められ、1956年10月19日に「日ソ共同宣言」が発表されました。この宣言は法的拘束力をもつと認識されています。ではなぜ「平和条約(講和条約)」ではなく「共同宣言」だったのでしょうか。それが今日にいたるまで日露関係に影響しているのです。
日ソ共同宣言は日本の国連加盟をソ連が支持するという内容や、日ソの外交関係樹立が文言に含まれています。つまりそれらを優先したいがために共同宣言という形で平和条約締結を先送りしたことが原因なのです。
2島か4島か
平和条約を簡単に締結できなかったのは北方の4島に関する帰属問題があったためです。そして平和条約を先送りした共同宣言では、平和条約締結後に歯舞と色丹の2島を引き渡す事が明記されています。これについて日ロ間に隔たりがあるのです。ロシアは2島を返還すればその他に領土問題はないという解釈、それに対し日本は国後・択捉を含めた4島が日本固有の領土であり、4島返還が確約されなければならないという立場なのです。
ロシア政府の対応をみても2島返還は確実なようなので、2島返還または4島返還で決着のどちらということになるでしょう。もちろん日ソ共同宣言はちょうど60年も前のものであり、今後どのように解釈するかだけでなく、双方が受け入れ可能な決着を見出していく可能性も十分にあります。